キノコ雲に追われて―二重被爆者9人の証言

キノコ雲に追われて―二重被爆者9人の証言 表紙
  • 広島と長崎で二度被爆した人々の声を綴るノンフィクション
  • 戦後10年にアメリカで刊行された二重被爆者の記録
  • 戦争・原爆について知るノンフィクション

戦後10年に刊行された二重被爆者の記録

1945年8月6日、世界で初めての原子爆弾が広島に投下された。それから3日後の8月9日、長崎にふたつめの原爆が投下される。このとき、300キロ離れた広島と長崎のふたつの町で、二度、原子爆弾の被害にあいながらも生きのびた人々がいる。二重被爆者である。

二重被爆者については、長い間、日本でもほとんど知られていなかった。二重被爆した方々が、その事実を語らなかったのも理由のひとつでもある。二重被爆者のひとりに、山口彊(つとむ)さんがいる。山口さんは、90歳を過ぎてから語り部の活動をはじめた方だ。2006年には記録映画「二重被爆」が公開され、海外でも上映された。戦後60年を過ぎて、二重被爆の真実が見えてきた。

ここに1冊の本がある。1957年アメリカで出版された二重被爆者のドキュメンタリー「キノコ雲に追われて―二重被爆者9人の証言」である。

当時、ニューヨークタイムズ東京支局長を務めたロバート・トランブルは、終戦から10年後の1955年に二重被爆者9人へ取材を行った。

戦後10年という早い時期のインタビューだということもあるだろうが、どの方も細部まで鮮明に記憶されている。

広島で見たのと同じ惨劇が、こんどはわたしの故郷、長崎でくりかえされたのです。あのような光景は二度と観たくないと強く願っていたのに。

被害を抑えることはできなかったのか

広島で原爆の恐ろしさを目の当りにし長崎へと戻った彼らは、長崎にも原爆が落とされるかもしれないと心配した。すぐに、家族や職場の同僚に広島でのできごとを伝えた。ぴかっと光ったらすぐに身を伏せるようにというアドバイスのおかげで、助かった人もいる。

この本で取材を受けた二重被爆者の中に、当時長崎日報会長であり、その後県知事となった西岡竹次郎さんがいる。

西岡さんは、広島から長崎に戻るとそのまま知事に会い、広島が全壊したことを伝えた。次の爆弾のターゲットは長崎かもしれないという予想をし、長崎が攻撃を受けた場合には、すぐに対策を取るべきだと主張した。一方で、言論規制が厳しかった当時の状況から、この話はだれにももらさないでほしい、とも付け加えた。

もしもあの時、新聞を使ってこの情報を広めていたなら多くの命が助かったかもしれないと、当時の自分を苦々しくふりかえっている。

もしも、広島での情報がもっと早く正しく伝わっていれば、長崎の被害はより最小限に抑えられたかもしれない。この本で語られる9人の体験は、原爆の悲惨さを伝えるだけでなく、情報を正しく伝えることの重要性も説く。それは時代を経て、真実を知ろうとするわたしたち自身にもつながる。正しく知ることは、戦争と平和について考えるための最初の大きな一歩になる。

1957年にこの本が出版された当時、取材した9人のほかさらに9人と合わせて18人の二重被爆者がおり、「訳者あとがき」によると本著出版の2010年時点では165人の二重被爆者が認めらている。

本をチェックする

この本では、インタビューで語られた彼らの声がそのまま引用されており、詳細が丁寧につづられている。英語で出版されたものを日本語訳しており、直接日本語で書かれた文章よりも、丁寧でより読みやすく綴られているのではないかと思う。

また、アメリカで出版されたこの本では、海外の人に見た日本のくらしや風習について説明が添えられている点も興味深い。

例えば、新婚であったヒラタさんのお見合い結婚について書かれたこんなこんな箇所。

恋愛しないと結婚できないというのは西洋の考え方だ。日本ではまず結婚し、それから恋愛するということがよくあった。

被爆の二週間前に結婚したばかりのヒラタさんは、広島の原爆投下で若い奥さんを亡くされた。その事実を抱えた重い足取りで、自分と妻の実家のある長崎に戻った時に、再び原爆に襲われている。

キノコ雲に追われて―二重被爆者9人の証言
あすなろ書房
ロバート トランブル (著), 吉井 知代子 (翻訳)

ハードカバー: 167ページ
出版社: あすなろ書房
発売日: 2010/7/1

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わたしが二重被爆の存在を知ったのは山口彊(つとむ)さんの本がきっかけでした。ぜひ合わせてこちらも読んでみてください。