木爾 チレン【静電気と、未夜子の無意識。】

青春と恋

黒×赤の装丁。キュートなピンクの帯には『全国の女子大生から「恋がしたい」の声続々!!』との大胆告知。これでは、東北在住・三十路・主婦の私は、書店でレジに並ぶのはおろか、手にすることさえ躊躇われてしまう。

そこで見つけた「本が好き!!」の献本に、迷わず「ぽちっ」。
なるほど、インターネットでHな本が売れるわけね、などと妙に共感してしまった。

このどこか奇妙でコミカル、だけど一途にピュアなこの恋愛小説、たしかに、ハマる。ゆるいようでいて、どの言葉も選ばれてきちんと並べられている印象を受ける。彼女の文章の独特の言い回しやリズム感も心地よい。

恋愛と言っても、ほとんどが未夜子の一方通行なのだけれど、だからこそピュアさがより切なく、痛い。宇宙人を追い求めている亘君も充分にイタイが…。

この恋愛小説の切なさうんぬんは、ピンクの帯に「読者からの声続々」と語られていますので、東北在住三十路主婦は敢えて別方向からつついてみようと思う。ここからはたぶん、R-35だけが共感する世界かもしれないが。

児童文学評論家である赤木かん子さんによると、子どもたちの小説分類は、携帯電話が登場するものとしないもので分けられる。小・中学生にとって、携帯電話のある生活は日常であり、ケイタイの登場する小説は「現代文学」、ケイタイ以前のものはもはや「古典」に分類されるという。

その観点でいうとこの「静電気と~」は、「現代文学」の代表ともいえる作品ではないだろうか。この小説の中で、携帯電話は不可欠な存在である。

名前をでかでかと記したリュックを背負ったダサイ恰好をして英語の教科書を夢中で読みながら構内を歩くような亘でさえ、携帯電話を持っている。友だちもいなそうなのになぜ必要なんだ?宇宙と交信するためか?などと考えてはいけない。10代・20代にとって、携帯電話は必要とか不必要で選ぶツールではなく、日常であり、「個人」そのものなのである。それは言葉では説明できない、例えば、ある年齢以下にしか聞こえないという「モスキート音」のような感覚なのだろう。

夜、亘の携帯電話に誰かから電話がくる。亘がまるで知らない人のように笑って話すすぐ隣で、未夜子は、まるでここにいない人のようになる、その切なさ。もちろん私にもその切なさはわかる、つもり、だが。そもそも携帯電話の意味が違うヤングな世代の読者の感じるそれは、私とは違うのではないかと思うのである。モスキート音の聞こえない私には、なんぼ共感しているつもりでも、語ることはできないのだが。

ケイタイがなければこの恋愛小説は成り立たず、切なさもない。

この小説に共感している女の子たちは、ケイタイそれだけで切なさを感じるのかもしれない。それは私にとって、公衆電話が切なさと艶っぽさ(ある意味エロさ)を含んでいるように。それをなんぼ説明しても、公衆電話を見つけることすら困難な10代・20代にはわからんだろうなぁ。同じように、「切ないなぁ」なんて本をぎゅっとしてみても、女子大生たちほどの切なさは読みとれていないのだろう。

お気に入りの恋愛小説は江國香織「神様のボート」、ボリスヴィアン「日々の泡」。
もうここから新しい恋愛小説は読めないかもなぁ、と弱気になってみたりする。
だが、ケイタイうんぬんではなく、世代を超えて不朽となる名作恋愛小説は数多くある。この『静電気と、未夜子の無意識。』にも期待したい。

(過去レビューより)