「店長〜、もったいない、ひとつ入りまーす」
「また?最近、多いな。今度はなんだって?」
「いつものあれですよ、面接で。なんで免許更新しないのかって」
「その仕事をする気がないからな」
「なんのために大学行ったんだ?なーんて親戚にも言われましたもんね」
「みんな人のことにいろいら考えてるんですね」
他人から「もったいない」と言われることがある。例えば、仕事の面接の時や親戚の集まりなんかで。大学を出てそれなりの免許も持ちながら、その仕事に就かずにいることについて。
私なりの理由はあるが、そんなプライベートなことを誰かれと話すつもりはない。
「もったいない」は思いやりの言葉であり、悪意はない。わかっていても、突きつけられる社会の価値観の押し付けに、私のHPはゆるやかに削り取られる。
学校に行かないよりも行った方がいい、
就職しないよりした方がいい、
結婚しないよりした方がいい、
子どもがいないよりいた方がいい、
老後のために2,000万円あった方がいい
この社会は、選んだ者たちの価値観で築かれた人生ゲーム。ところが、ゲーム盤のコマの上を進むようにはいかないのが、人生だ。
正しく進めない私たちは、かわいそうなのだろうか。
高瀬さんの作品は、そんな問いにひとつの答えをくれる。
風呂に入らない夫、許す妻
ある時、夫が風呂に入らなくなる。
水道水がくさいという。
水がくさいんだよ。それで、それが体につくと、かゆい感じがする。
なんだろう、例えば古本屋の倉庫の奥の段ボールに十何年も前から眠っている埃まみれの茶色い古書があったとして、それを触るとなんとなく手がかゆくなる感じがする、そういう感覚のかゆさというか。(本文より)
やがて夫は、髪にシャンプーを使うのを止め、体に石鹸を使うのを止め、歯に歯磨き粉を使うのを止めた。
風呂に入らない夫は、当然、だんだんとくさくなる。うっかり大きく息を吸ってしまうと、鼻だけでなく目にも刺激があって涙がにじむほど、に。
風呂は入った方がいい。(素人だが、予防医学の観点からも断言する)
そんなことは妻もわかっているのだし、夫とて、自分が匂うことも気にしている。
だから妻は、水道水が苦手な夫のために、ミネラルウォーターをかけてやったりする。夫は、雨水で汚れを洗い流そうとする。
もしかして、今、夫は狂っているんだろうか。
雨の中、Tシャツ短パンサンダル男がびしょ濡れで歩いているところに遭遇したら、(しかも男の目的は、身体を洗うことである)私なら怖い。やばい人だと思うだろう。
三ヶ月も風呂に入らない息子を義母は、はっきりと”おかしい”と叫ぶ。義母や夫の会社が騒ぐほど、やばいことなのだろうか。
仕事に行き、食欲もあるし、パソコンで動画を見たりビールを飲んだり、散歩もする。長い間、お風呂に入らなくても、夫の体調はどこも悪くないのだ。
風呂に入りたくない人が、自分の心の声に従い、風呂に入らない。それの何が”おかしい”のだろうか。
きちんとしている人たちは知らないのだ。風呂に入らなくてもなんともなく生きていけることを。
(ただし、もし私の隣の席の人が3か月もお風呂に入っていないとしたら、病院に行くかどうかは自由だが、席替えしてくれと上司に訴えるだろう)
化学薬品のにおいのする流れのほとんどない毒のような色をした汚い川の中にも、生き物はすんでいる。謎の魚・台風ちゃんも、たいして世話などされず、苔だらけの濁った水槽の中でも、生きていた。
なんも大事にされとらんでも、生きて行けるもんじゃねえ。
空気も水もきれいな方がいい。
風呂に入らないよりも入った方がよい正しさで、そう言える。
苔だらけの薄汚れた泥水の中で、ちゃんと呼吸をして生きているものを、きれいな空気の中で暮らすたちが上からのぞきこみ、あーだこーだと騒ぐ。
批判する自由はあるとしても、汚れた空気や水で生きる人を排除する権利など、だれにもない。
“ふつう”が正義の皮をかぶり大手を広げて闊歩している。どうりで生きづらいわけだ。人生と人生ゲームをごちゃ混ぜにしている人が多すぎる。
きちんとしていない人生は、不思議?不健全?かわいそう?自分だったら耐えられない?でも、それ、あなたの人生じゃないからさ。
平和であれ、と彼女は思った。祈りというほど遠いものに願っているわけではなく、もっと手の届く身近なものに、平和であってよ、と願っていた。
妻と夫の暮らしが穏やかであるならば、何の不幸なことがあるだろうか。ただ、ふたりの平和がいつまでも続いてほしいと願うばかりだ。
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第165回芥川賞候補作
出版社 : 集英社
発売日 : 2021/7/13
単行本 : 144ページ