私は贈り物を選ぶのが苦手だ。たくさん並んだすてきな品物の前で、なにを選んだらよいかわからず途方にくれる。
贈り物を渡す相手を思い浮かべる。あの人は、なにが好きだろう。
だめだ、まったくわからない。そもそも私は、その人がなにを好きかなんて考えたことがあっただろうか。
デパートのエスカレーターをのぼったりおりたりしながら、炙り出される自らの非情さに深い自己嫌悪に陥り、結局、手ぶらのまま家に帰るパターンを何度繰り返してきただろう。
この物語の主人公である引きこもりの小説家もまた、贈り物が苦手なタイプである。それだけじゃない。私はこの男にどこか似ている。
世間を疎んじて、孤独を愛する。
知ったかぶって、本当は、なんにも知らない。自分のことすらわかっていないのに、だれかのことを知るなんて高度なことができるわけがない。
繊細なのか鈍感なのか
「永原智です。はじめまして」
小説家の男のもとに、生まれてから二十五年間、一度も会ったことのなかった息子が突然やってくる。
男は、できるだけ人と関わらずに家に引きこもって暗い小説ばかり書いている50歳。一方、息子は、愛想と要領のよさをあわせもつ、明朗活発で思いやりのある好青年だ。お土産に出来たての大福をセレクトするあたり、なかなかのやり手といえる。
そんな父親と息子がひとつ屋根の下で、共同生活をはじめることになる。
男は、そこそこ売れている人気作家である。自己の内面、人間の苦悩と根底を描く純文学を書き続けている。
男は自分が何者であるのかをよく知っている、つもりだった。息子と暮らすまでは。
それまで、男は人との関わりを最小限にして、だれにも迷惑をかけず、特に困ったこともなく、生きてきた。ところが、息子から見た男の暮らしは、ちょっと違う。
「引きこもって路頭に迷った話ばかり書いているうちに、こんな当たり前のこともわからなくなってるなんてやばいよ」
そうなのだろうか。
俺はおかいしのだろうか。
たしかに。息子の視点は間違っていない。
孤独を愛していると言えばカッコよく聞こえるが、子ども、親、友だち、ご近所ともつながりを持たない徹底ぶりは、単に面倒ごとを避けているとしか思えず、贈り物を選ぶセンスもなければ、からあげくんも知らず、人と分け合い、支え合うこともせずに自分ひとりで上手に生きていると思っているなんて、ただの世間知らずのおっさんである。なによりも、生まれた子どもを若気の至りと割り切る自分を正当化できる鈍感さよ。
息子や近所の人たちとの思いがけない関わりは、孤独の闇を愛する男の人生にやわらかい灯りをともした。
家にスリッパがなくても暮らしに不自由はないのと同じように、だれかと深く関わりを持たずとも、人はそれなりに生きていくことはできる。
誰にも心を乱されず、揺さぶられない暮らしは穏やかだろう。これまでも、男はそうやってひとりで生きてきた。
私もまた、この小説家のように自分のことしか見えていない。自分を守るため、気楽で自由な自分の孤独を偏愛している。
こんなんで、よくいままで生きてこれたな、と思う。私もおっさんも。
だれかと語り、笑い合う暮らしのあたたかさを知り、はじめて男は自分の暮らしの殺風景さに気づく。ひとりで飲むコーヒーよりも、だれかが淹れてくれたコーヒーが美味しく感じられることも。それに、家にスリッパがある毎日は、うんとあたたかいことも。
だれかのいる人生も、それを失いたくないと思う日々も、悪くない。
孤独には自由と寂しさが、人との関わりには楽しさと煩わしさはある。いずれも、行き過ぎれば、息苦しさとなる。
ひとりの方が気楽でいいかもしれない。それでも、だれかといることに希望を持ちたい。瀬尾さんの物語はいつもそんな風に思わせてくれる。
ところで、人を喜ばせる贈り物を選ぶのは苦手だが、自分がもらうなら食べ物に限る。甘いお菓子であれば、尚よい。
これからは、仲良くなりたい人には、どんなものが好きか積極的にたずねていこう。できたら、お茶を淹れて一緒に食べられるものがいいな。
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出版社 : 文藝春秋
発売日 : 2022/5/10
文庫本:224ページ
単行本 : 224ページ