石原千秋『ケータイ小説は文学か』

ケータイ小説専用のサイトで人気の小説は次々と書籍化され、全国の少女たちが作家さんといわれる時代。学校図書館にケータイ小説を入れている中学校もあるし、入れるべきか、という議論されている学校も少なくない。

実際に女子中学生の多くが購入し、読んでいる・読みたい書籍なのであれば、図書館に入れるべきなのだろうとも思う。このサイトでも紹介するからには、ケータイ小説について少しお勉強しておきたいところ。

そこで、手にしたのがこの2冊。どちらも2008年に発売されたもの。「ケータイ小説は、すでにピークを過ぎた」と語っているが、当時の著者の期待を裏切って、その人気はますますヒートアップしているように思う。

まずは、石原千秋・著のこちら。

ケータイ小説は文学か。正直、文学に携わっている重鎮の皆さまは鼻にもかけていないという感じのようですが。たぶん、これって平行線の出口のない議論だと思います。著者は、毒舌を武器に、鋭い切り口でズバズバっとケータイ小説を解体しています。

『Deep Love』や『赤い糸』など、もはやケータイ文学古典とも言えるような作品を取り上げ、流行の背景と合わせて作品を分析。それらを文学として位置づけながらも、決して好評価してるわけではない。てか、そもそも純粋な「文学」の定義などあってないようなものなのから、これも「文学」にしちゃってもいいんじゃないのというようなスタンスで、文学をハードルを下げるかに見せて、か~ら~の~、「ついてこれるか」って感じに難しげな文学的解説を時折畳みかける。「文学」を高潔に守ろうとするおじさまたちに「私はこれくらい柔軟に対応できますよ」とアピールしつつ、ケータイ小説には上から目線という感じ。文学の位置づけは与えても、では文学としての評価はどうかというと、低いということでしょうね。著者の小気味よい文体は好きです。

これ読むと、ケータイ小説を書いている人も読んでいる人も、そもそも文学という意識なく、また文学として認めて欲しいなんて思ってるわけでもないのだから、好きに議論して下さい、という感じもしてくる。まるで、こちらが好きだとも言っていないのに「ウチの嫁としてふさわしいかどうか」を勝手に、かつ真剣に話し合っている財閥親戚一族のような滑稽さがありますが。ま、文学評論家とはそれが仕事なのでしょうから。

ケータイ小説がこれほどまでに流行し、なぜ多くの若者に受け入れられているのかをかつて日本中にはびこったヤンキー文化の流行と絡めながらうまく解説してくれているのが、こちらの本。

合わせて読むことで、若者の流行のシステムが見えてくる気がします。