ブレイディみかこ『両手にトカレフ』〜子どもであるという牢獄を撃ち抜け

2021年、親ガチャという言葉が流行した。ガチャガチャで出てくるアイテムのように、親を自分で選べないことで、親が当たりはずれだったりすることを、ひと言で表現したことば、である。(ユーキャン新語・流行語大賞より)

『両手にトカレフ』の主人公ミアもまた、親ガチャ”はずれ組”だ。14歳のミアの暮らしは、不安定な母親に振り回されている。短いままの制服に身を包み、常に空腹を抱え、自分のことに加えて、弟の世話もしている。

ある日のこと。いつもは閉じている扉が開いていることに気づいたミアは、吸い込まれるように進み、エレベーターに乗り込んだ。止まった先は図書館。ミアはそこで、1冊の本と出会う。ある日本人女性の刑務所回顧録。百年ほど前に生まれた、カネコフミコという女性の生い立ちが綴られた自伝書だった。

ミアは、すぐにフミコの人生に引き込まれていく。複雑な大人の事情に翻弄され、不安定な暮らしを強いられているフミコ。

フミコの母親は、ミアの母親に似ている。

男に頼らないと生きていけず、仕事もしない、食事の準備もしない、子育てもしない、無責任な母親。憤りながらも、子どもであるがゆえに翻弄されるしかない不幸なフミコにミアは自分を重ねる。

自分の気持ちをわかってくれるのはこの人しかいない、と言い切るほど、フミコに心酔していくミア。

どちらも、親ゆえの苦労がある。だが、無戸籍のフミコと違い、ミアは社会的に孤立しているわけではない。カウリーズ・カフェ、ソーシャルワーカー、学校の友だち。支えになる人はいる。ただ、心は開いていない。

この人たちには、わかっている以上のことを勝手に想像して決めつける時がある(反省)と、ミアはいう。

クラスメイトのウィルも、ミアを気にかけているひとり。国語の時間に書いたミアの詩に興味をもったウィルは、ラップのリリックを書いてみないかと提案する。

タイトルの『両手にトカレフ』はミアから生まれたラップだ。

ウィルはミアのラップを「すごくいい!」と褒めてくれたが、”リアル”という言葉に壁を感じる。

リアル(本物)。その言葉が妙にミアの心に刺さった。それはミドルクラスの人たちが自分たちのような環境で生きている人間の生活を指している言葉だと知っていたからだ。本物の貧困、本物の底辺、本物の公営団地。ウィルはこの言葉を使うことは何のためらいもないようだった。

(本文より)

結局、ミドルクラスとは住んでいる世界が違う。安全な場所から理解しようとする彼らとは、対等にはなれない。期待しては裏切られる経験は、ミアの心の扉を重くする。

だれとも分かり合えない孤独、どこまでも追いかけてくる絶望感、頼りになるはずの母親は壊れていて、辛い記憶は消えないまま残る。

親ガチャで”はずれ”だったのだから仕方がないと自分に言い聞かせなければ、やってられない。

逃げられないのだ。逃げたいのに、自由になりたいのに、安全でいるには鍵をかけて閉じ籠っているしかない。

(本文より)

カネコフミコの自伝、クラスメイトのウィル、ケイ・テンペストの音楽、いつくつもの新しい出会いは心を揺さぶる。”子どもであるという牢獄”の中で、自分の世界を閉じたまま終わらせないために、ミアは動き出す。

ここで、カネコフミコについても少し触れたい。

この小説の強力な引力は、作中で引用される金子文子の自伝によるところが大きい。ミアでなくとも、フミコの壮絶な生い立ちに惹きつけられるはずだ。私も、この本を読み終えた後、すぐに金子文子の自伝を読んだ。

『何が私をこうさせたか』というタイトルも怨念めいている。

フミコが生まれた時、両親は婚姻届を出さなかったため、無戸籍者として育てられる。父親と母親、叔母との複雑な関係、食べられない日々、繰り返す転居、無戸籍者であるゆえの差別、そして突如訪れる朝鮮でのくらし…。『両手にトカレフ』で引用されているのは13歳のフミコまで、自伝の半分ほどになる。その後のフミコが気になる方は(すぐ読まずにいられないに決まっている)、合わせてお手元にご準備を。ブレイディみかこ『女たちのテロル』でもフミコについて興味深い考察が読めます。

生まれた時の環境や親が、人生に及ぼす影響は大きい。しかし、それで人生が決まるのだと諦めないで欲しい。過去と他人は変えられないが、自分を変える小さなチャンスは必ず訪れる。

目の前に開いた扉に飛び込んだミアがフミコの本を手にしたように、あなたの目の前に開く扉を見落とさないよう、決して心のすべてを閉じるな。

この本がだれかの手に渡り、勇気を与える一冊になることを祈って。

本をチェックする

両手にトカレフ
ポプラ社
ブレイディみかこ (著)

この本もおすすめ