きりこはぶすである。
ページをめくり、最初に書かれた一文に足を引っかけて躓く。
思わず、三度見する。
心の中で読み上げずにいられない。
「きりこはぶすである」
「きりこはぶすである」
「きりこはぶすである」
秀逸な書き出しといえば、有名な川端康成の『雪国』がある。
「トンネルを抜けると、そこは雪国だった。」
この短い一文で、語り手が汽車でどこかへ向かっていること、それが北国か北陸であることが読者に伝わる。
描かれる風景は、暗く長い場所から明るく開けた場所へ、黒から白へと瞬時に切り替わる。ほんの20の文字で、これほど鮮やかなコントラストの情景が描かれていることに、ため息がでる。
『雪国』とは違う意味で、この小説の書き出しもまた、人の心をつかむ「ため息書き出しフレーズ」と言える。
『雪国』の書き出しが「物語のはじまり」を表現しているのに対して、『きりこについて』の書き出しは、この小説のすべてを集約している。
この書き出しに躓かないあなたは、この本を必要としていない人だろう。
ぶすとかバスとか
読書は、私たちの多様性を知るための有益なツールである。
「多様性」という言葉はあまり好きではないが、この社会には自分以外の人がいることを認識するのはとても大事なことだ。
だからといって、興味本位でぶすの世界をのぞくのはやめて欲しい。当事者として、強く言っておきたい。
しかし、ぶすという言葉は心臓に悪いので、ここから先は「バス」に書き換えたいと思う。
きりこはバスである。ただし、きりこは自分がバスだということを長い間知らずに育った。
そこそこの美男美女であるパァパとマァマのあいだに一人娘として生まれ大変可愛がられて育ったきりこは、むしろ自分を可愛いと思っていたほどだ。
バスに暗いイメージを持つ人は少なくないが、きりこは決して、俗にいう隠キャではない。どちらかと言えば、自己肯定感高め、周囲から一目置かれるボスキャラのバスである。
小学生になったきりこは、はじめての恋をする。相手は、こうた君。(のちに抹消したい思い出に変わる初恋である)
同じころ、きりこにもうひとつ重大な出会いが訪れる。ラムセス2世との出会いである。ラムセス2世は、大変賢い猫である。
小学一年生の時に、体育館の裏で見つけた猫に、ラムセス2世と名付けた。猫の世界の価値観は人間のそれとは違う。そんなラムセス2世から見ても、やはりきりこは、バスであった。
そんなきりこ無垢で無知な楽しい子ども時代にも、終わりが訪れる。いや、小説の言葉を借りれば、「女」としての人生が不幸なスタートを切る。
ある日、きりこは面と向かい「バス!」という言葉を投げつけられる。
これをきっかけに、きりこを取り巻く世界ときりこの内側の世界は大きく反転する。
ここから、きりこの悩める日々がはじまる。
うちのどこがブス?
(あ!書いてしまった)
自分とはなにか。
社会の中における「自分」を突きつけられずに生きることは難しい。周囲に貼り付けられたレッテルと内面の自分との誤差に悩む人は、少なくない。きりこは自分と同じように、社会の理不尽さに納得いかず、もがく人々と出会う。
ブスであるということ。
女であるということ。
変えようのない自分自身と他者をじっくりと見つめ、きりこは揺るがない自分自身を構築していく。
社会の些細なひと言で、私たちはいとも簡単にブスにもバスにもなる。戦うことは無意味で、飲み込まれてしまえば楽だが、自分であることは簡単には捨てられない。
私たちに必要なのは、自分を認め受け入れる社会などではない。「ぶす」も「女子」も抱えて生きる強さが必要だ。
きりこのすべてをありのままに愛するパァパとマァマ、そしてラムセス2世がいたように、そのためには”愛”が不可欠なのかもしれない。
※「バスのきりこ」が「バスのきこり」と読み間違えそうになりますので、お気をつけください。
※中学生、高校生に読んでほしい作品です。物語のなかで、性を仕事にした職業を取り上げています。そうした表現が苦手、受け入れ難いという方には、おすすめしません。
本をチェックする
出版社: 角川書店(角川グループパブリッシング)
発売日: 2011/10/25
文庫: 217ページ
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